レコる世間のエターナル幻想 vol.02


 『SPA!』2005年4月19日号の<エッジな人々>で、作家の清野栄一さん、精神科医斎藤環さんが対談してます。清野さんの小説の刊行に合わせた企画ですね。


◎『テクノフォビア清野栄一(著),扶桑社(ISBN:4594049192

 誰かがおれを追跡(トレース)している──。システムエンジニアの<卓也>は、大量に送られてくるスパムメールの一つがきっかけで、未曾有の恐怖を体験する。次々と現れる女たちは、彼の個人情報を熟知したそぶりを見せ、彼の知らない所で彼の生活がブログに記録されていく……。(P.129)

 テクノロジーに対するフォビア(恐怖症)描いたこの小説をめぐって斎藤さんは、「私が怖いと思うのは、人々の間にフォビアがないことのほうなんです」と言ってる。

 あるあると噂されているエシュロンのような、個人レベルのメールやインターネット上のデータが全てアーカイブ化されていて、個人名を検索すれば一発で引き出せる管理システムの構築は、将来的に十分可能性がある。にもかかわらず、我々は意外と無頓着にメールを使っているし、ブログには顔写真まで平気で載せて、どんどん自分の情報を晒している。その無頓着さに対する恐怖が私にはあって、人々にはフォビア的な感覚を取り戻してもらいたいなと思うんです。(P.131)

 限られたブログの限られた日付しか見てない私には目下、ここで言われているほどに無頓着さが蔓延しているのか否かを判断する材料がない。ただ、フォビアを持つほうがいい、との意見には同感。
 もひとつ、斎藤さんのコメントから。

 ネット社会というのは昔から、ネットワークの中に個人が胎児のように包み込まれて、その中をたゆたっているような「母性的」な社会モデルとして語られてきたんですが、その母性に対抗することは本当に難しくて、旧来の戦いでは無理なんですよ。ですから、清野さんの小説のように、そこに恐怖を持ってくるというのは、戦略としては素晴らしいと思う。ネットワークが持つ母性の誘惑に対抗するには、母性に対する恐怖しかない。(P.131)

 このあたりは「監視(管理)社会」(と「安全性」のトレードオフ)を主題としたやり取りになってるんだけど、そうした社会をまったりと進行させるのではなく、“抗え”というのがこの66年生まれの作家が書いた小説の核心……なのかな?