“この「過去の引力」はなんだろう”(鴻上尚史)


 『SPA!』2005年11月15日号の鴻上尚史さんのコラム「ドン・キホーテのピアス」(543)から。コラム中で、『文芸漫談 笑うブンガク入門』を「とても刺激的な本だった」と紹介している。そこから「物語」論が展開する。切実なものを感じ取ったので、一部をメモる(P.137)。

 「物語」は、無条件で、あなたの人生に意味を与えるから、本来的に「癒す力」がある、と言えるのです。
 とすれば、究極の物語は、「宗教」ということになるなあ、と思うのです。
 宗教は、あなたの「死」に意味を与えます。「死」を意味あるものにするから、人生も意味あるものになるのです。
(中略)
 特に、僕達日本人は、宗教団体と関係のない、宗教とは一般的には思われていない宗教を信じながら、生活しています。会社だったり、世間体だったり、グループだったり、です。
 そこで求められるのは、その“宗教”を補完し、強化する“物語”なのでしょう、か。
 と、断定できないまま、困惑するのは、いったい、僕達は、どんな宗教を選び、どんな宗教を拒否しているんだろうと考えるからです。

 読点の多さが、筆者の逡巡を伝えている。
 私自身、狭い意味では「無宗教」なのだが、広い意味では、ここに言われている“宗教”と無縁でないことは自覚しているつもりだ(最近、それらの事象においても“アンチ宗教”の意識傾向が強くなってきたように感じてはいるが)。とはいえ、「どんな“物語”を選び、どんな“物語”を拒否しているのか」を突き詰めて考えたことは、やはりなかった。

 「人生に意味などありはしない。だからこそ、生きていくのだ」という物語が力を失い、、「人生にはきっと意味がある。だからこそ、生きていくのだ」という物語が広く受け入れられています。
 けれど、「人生は無意味だからこそ、どんな意味も与えられる」という“物語”が僕達に与えてくれる解放感は、すてたもんじゃないと思うのです。

 ここは、ほとんど同感なのだ。しかし、自分がそれほど「強い」人間なのかというと、自信がない。「無宗教」の人間にとっての“魂の自由”とは、いったいどこにあるのだろうか。


 ちなみにキャッチは、“特撮で再現された建設途中のタワーに思うこと”で、メモったのは『ALWAYS 三丁目の夕日』のレビューの中にある文章です。最小限の引用にしたので、どのような文脈に置かれたものかは、実はわかりにくいと思います。興味のある方は、雑誌を手に取ってください。


文芸漫談 笑うブンガク入門

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