キャラクタライゼーション vol.01


 20世紀の米国西海岸は、モータリゼーションと並び、もうひとつの重要な文化的パラダイムを発信していた。それが“キャラクタライゼーション”だ。そうしたハリウッド映画の知恵はしかし日本には、キャラよりもむしろ“物語”に目を向けたストーリーマーケティング(の一要素)などとして移植され、現在に至る。
 21世紀に入った日本で、そうした指向はまさに物語の主戦場に逆ムーブオーバーし、キャラに力点を置いたライトノベルと呼ばれる流域を形づくっている。そんなふうに見てみる、試しにだが。
 などといったことを考察する資料として、青土社刊の書籍『映画の授業 映画美学校の教室から』の中で、『害虫』『カナリア』の塩田明彦監督が担当している「シナリオ概論」からメモる。

  1. テーマ(企画)
  2. 登場人物(キャラクター)
  3. 構成(出来事の羅列・視点・情報の順番)
  4. 世界観(世界設定)
  5. 世界観(世界認識)

 塩田監督は、これらの要素によって出来ているシナリオの構造を図式化した上で、まずそれぞれを順に簡単に説明している。「登場人物とは即ち登場人物であり、キャラクターとはその登場人物の人格の特性である」といった一文で始まるのが(2)だ。それに続き、「これは余談だが」と断った上でアメリカ映画に対する洞察を披露する。内容はこうだ。

 アメリカ映画はしばしばストーリー中心主義とかスター中心主義と形容されるが、作劇的な観点からすれば、アメリカ映画の主要な特徴とはキャラクター主義である。アメリカ映画の説話的な経済効率に優れた作劇・話法はしばしば人物の把握、そのキャラクター把握の見事な単純化(平坦化でも単調化でもない)によって支えられており、そうしたキャラクター把握は一面において映画のジャンル性ともリンクする。たとえば西部劇で地平線の彼方から男がやってくれば、この男は常人の域を超えたヒーローであってもいいわけだが、それは男のリアリティが当の映画のみによって支えられているわけではなく、映画が属しているジャンルの約束事によっても支えられていることを意味している。もちろんジャンル以前の物語的な想像力のありようとして保証されるリアリティというものもある。そうした力学に乗るか、乗らないかはしばしば映画の作劇を大きく左右する。(P.30)

 といった要領でそれぞれの要素を説明した後はいくらか実践的な内容に移行し、登場人物については「キャラクターがつかめないとき」にシナリオの書き手はどのように危機を乗り越えればいいのかを指南している。この中に「⑥内面が先か、行動が先か」と称する項があある。内面を問わず、「まずそこで人物がとったら面白い行動を先に考えてみる」ことを勧め、以下のように続けている。

 「この人はこういう行動をした、ゆえにこういう人物なのだ」あるいは「この人はこういう行動をした、ゆえにこういう気持ちだったのだ」と考えてみるということである。登場人物にはまず行動があり、その行動によってはじめて内面が浮かび上がるという発想である。実をいえば、アメリカ映画の作劇の基本はこうした行動こそを徹底的に重視する姿勢にある。行動に反映しない内面はある意味では存在しないに等しいのである。アメリカ映画的な人物把握の基本とは、その人物のキャラクターを必ずネガとポジの両極で把握し、そのキャラクターから生まれる行動以外の人物の内面には言及しないという、このふたつのポイントから生まれているように私には思える。そしてこうした人物の単純化と、ジャンル的な世界観によるリアリティの底上げが、かつてのハリウッド映画をほぼ九〇分を超えることのない、きわめて経済効率の高い独自の世界たらしめていた理由のひとつだったのではないか。(P.50-51)

 もちろんこうした作法を絶対としているわけではない。例証として、ジョン・カサヴェテス神代辰巳ロベルト・ロッセリーニといった作家たちを挙げながら、「私は登場人物の内面を否定しない。しかしそれはある明快な心理として因果に筋を通すことのできるものだとは思わない」と記している。
 これらは、本書の中では(今の私には)特に興味深い個所だった。


映画の授業―映画美学校の教室から

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