だから「生きろ」と映画は言う


 「角川春樹佐藤純彌」のコンビネーションには、私(と同世代の映画ファン)は特別な思い入れを持っている(はずだ)。“角川大作”に対しては、メディアミックスによって映画をイベント化したことの功績を認める声と共に、逆に反感、「大味」などといった評価がついてまわった。宣伝で煽った高揚感を裏切るような出来の作品があったのは、事実だと思う。
 『人間の証明』(1977.10.08)、『野性の証明』(1978.10.07)共に当時、私は『バラエティ』誌を眺め、原作を読み、満を持して臨んだ(“読んでから観る”派だったのだ)。意気込んでいただけに、不満が残る結果になった。高校時分の鑑賞眼などあてにはならないのだが(いや、いまもだが)、なにしろ事前に脳に送り込まれてくる宣伝ビジュアル(相澤雅人)と音楽(大野雄二!!)が強烈で、なのに、仕上がりとのギャップを事前予測・調整した上で劇場に赴く“知恵(割り切り)”がこちらにはないころだったのだ。


 そして、大和だ。角川映画の残像をちらつかせながら、同時に『タイタニック』『プライベート・ライアン』『パール・ハーバー』といったハリウッド超大作群をある意味で教師的にある意味で反面教師的に参照し、見事に現代の観客にアピールできる映像に仕立て上げている。私は満足した。角川映画(形としては東映作品だが)に“魂”が宿るまでの長い道程に思いを馳せざるをえなかった。


 時間は残酷、時間は正直、そして時間は優しい。(と思うのは、こちらが年をとったからかもね…)


男たちの大和/YAMATO』監督:佐藤純彌(2005年・日本)


 『ローレライ』の画コンテ主義とは対極にあって、エモーションを掻き立てる決め構図や、(ジャパニメーション的な)CGアニメートはこの映画には存在しない。空間の躍動が生じることのない距離感を欠いた戦闘描写。阿鼻叫喚が単に連鎖するのみの有機性を欠いた編集術。これがフィクショナルなアクション映画だったら、『野性の証明』から進歩していないのでは、と断じたかもしれない。ただ、ここではそうした細工は確かに不要だった。


 戦争は愚かであるが、(それが自ら希望したものであっても)死地に赴いた個々人が愚かだったわけではない。尊厳は認めなければいけない。しかし、戦地ではその個々人の尊厳は(顔の見えない距離を欠いた相手に)いとも簡単にズタズタにされる。戦時における機械と身体の死にざまは無様に描けばよいのであって、ヒロイックな瞬間が訪れる必要はない。そして、生き残ることも、決してヒロイックではない。投じた大規模バジェットを、あえてこのように使う決意は難しいことのはずだ。


 冒頭の仲代達也から、もう泣けてしまった。『タイタニック』『プライベート・ライアン』同様のいわゆる“サンドイッチ型”のバリエーションとしながら、わかりやすく三世代を洋上に孤立させる(なおかつ別れ別れになっていた戦友の亡霊の存在を感じさせる)現在の扱い方がうまい。また、一場面で退場する女優(寺島しのぶ余貴美子)を彩りで終わらせずに、きちんと泣かせ場所の主導権を与えているのがよい。


 撮影からのフルデジタル体制。尾道映画から『BEST GUY ベストガイ』『宣戦布告』まで幅広くこなしてきた撮影の坂本善尚がVFX統括も手がけ、面目躍如の感がある*1。新テクニックのトピックスはなさそうなのだが、VFXには、モーターライズ、マリンポストをはじめ『ローレライ』参加組がごっそり移行(特撮研究所はこちらがホームグラウンドなので)。ほかにも有力プロダクションが加わって、オールスター戦に近い陣容かも。
 Official Blogの特年兵ゆっちんのYAMATO乗艦日誌〜激闘編によると、VFXは約450カット。大半が沖縄戦の場面に集中しているという。VFXを紹介した日のポイントは

【今回の注目ポイント】
・大和に注目せよ!
・戦闘機に注目せよ!
・機銃発砲や爆弾の爆発に注目せよ!


まだまだありますが、試写に当って何度も直しが生じたのがやはり、大和。甲板の色や、光のあたり具合、波との合成、水飛沫のあがり具合…。同じく、戦闘機もその質感や編隊の組み方、被弾の仕方、爆発の仕方…。また、何発も撃たれる機銃の発砲や投下された爆弾の爆破の仕方…

 と、完成間際まで細部にこだわった様子が報告されている。

*1:現在の洋上シーンに、『オレンジロード急行』(1978)を思い出していたら、これも坂本善尚さんでした。