“僕は敗北の美学とかそういうところにはあまり共感しないんですよ”(樋口真嗣)


 現時点でロケ記(エキストラ体験記)はかなり飛び交っているものの、内容の詳細はまだ明かされていない『日本沈没』の情報が、少し紹介されていた。『MOVIE ぴあ 2006 WINTER 1冊まるごと映画だけ!(Weekly ぴあ 別冊 1.15号)』に、1ページだけだが、樋口真嗣監督のインタビューが載っている。キャッチは“『日本沈没』撮影現場で樋口監督を独占取材!”“いまなぜ日本沈没なんですか?”。「現場を訪問したものの、撮影禁止! さらに詳細を書くことも許されない厳戒秘密体制」の中で敢行したもの、とある(P.124)。これによると──

 僕は今回、あくまでも人間の話にしたかった。(事態に)巻き込まれながらも立ち向かっていく人間というレベルで最後まで貫き通そうとした。明日起きてもおかしくないことだから、そこはちゃんと描きたいと思った。諦めずにいきたいな、って。何もしないんじゃなくて、何かしなきゃ、って。
(中略)
 少なくとも“世紀末”的な映画ではないことは確かです。

 と語っている。諦観を色濃く表現していた旧版とは異なる人間ドラマを描く──ことが2006年版のポイントとなっているようだ。


 このインタビュー以外では、アップ時(2005年8月16日)には全く気付かなかったのだが、パナソニックのサイト「Panasonic : CQ」内の「ニッポンの画 ! Nippon no E !」にある“ISSUE 002 『ローレライ』から『日本沈没』へ 樋口真嗣監督の挑戦”と題するインタビューに行き当たった(→こちら)。これは、とても面白い(取材・文は藤津亮太さん)。


 まず、『ローレライ』公開後の心境、そして、なぜ監督に進出したのか、そのモチベーションの原点を樋口監督らしい表現で語っている。また、比較的レアな話題として、『ローレライ』の回想シーンに採用したPanasonicのAG-DVX100Aのこと(サイトとしてはこれが本題か)、1992年に手がけた『太陽が引き裂かれた日〜東京大地震』(立川防災館・防災ミニシアターのドーム型スクリーン用の映像)のことなどに触れた後、旧作の『日本沈没』に対する分析を示し、新作にどのようにアプローチするのかを明らかにしている。

 旧作の当時は地震が来た時にどうなるかわからなかったから、ああいう恐怖感を煽る手法ができたんですよ。けれど今は、阪神大震災中越地震を経て、既に大地震が来たらどういうことが起きるのか多くの人に共通認識ができていますよね。だからそこをあまりシミュレーションする必要はないと思っていて。むしろその共通意識の延長線上に映画を構築することになりますね。
(中略)
 去年、「お台場映画王」というイベントで、俺のセレクトということで旧作の『日本沈没』を上映したんですよ。まさか1年後に自分がそれを撮影しているなんて、思いもよらずにね(笑)。ちょっと話が戻りますけど、さっき話したように旧作ってある種異様で、ドラマがないにもかかわらず、ずっと引っ張っていくんですよ。で、そのイベントに出ていた『ローレライ』の製作の亀山(千広)さんは、「うーん、やっぱり俺はこれ、ダメだわ」っておっしゃるわけですよ。ドラマがないから。それはヒントになっているんですよ。


 この後、「怪獣映画」に対する現在の見解を語った後に、最後の設問。「どんな監督になりたいと考えているのでしょうか?」。これには、「やっぱり俺は、宮崎駿さんになりたいですね」と答えている。

 それは自然を大切にとかそういうことじゃなくて(笑)、宮崎さんってストーリーテラーとして滅茶苦茶手練れじゃないですか。『ハウルの動く城』を見ても、こんなストーリーをここまで語れるのはこの人しかいない! としか言いようのない語り口で。こう弁士っぽいというか、よどみないんですよね。もちろん作品すべて見ると、同じところをグルグル回っているなぁと感じるころもあるわけですが(笑)。でも物語を語るときに、観客に疑問を感じさせず、気持ちいいからいいやと観客がそれを許容してしまうような関係性を築くんですよ。そういう観客との関係は俺の理想でもあります。


 予告編(→公式SITE)に道頓堀の水没した様子が登場する以外は、具体的なイメージはまだそれほど出てきていないはずだ。例えば「役者」として参加している福井晴敏さんのレポートによると、発表されている主要キャスト中にはない和久井映見長山藍子といった名前が出てきたりもする(『特撮エース No.013』爆発道場第十二発)。「厳戒秘密体制」が解かれる中で、どのような姿を現すのだろうか。夏公開が待ち遠しい。


福井晴敏さんの追跡情報

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