日陰の、そのまた日陰は明るいのか?(非ず非ず)


 『嫌オタク流』に関連させて1月27日付の当Blog(→ここ)に記した内容について、benigomoさん(「タイトル案候補」)による分析(→ここ)があったので、説明不足だった点をちょっと補っておきましょう。


 私の居る場所をあえて言うなら、「準オタク」(ぬるいオタク)ゾーンなのだろうと思います。それなら“「非オタク」じゃなくて「オタク」でしょうよ”と言われれば(他称については)そのとおりでしょう。
 ただ、「真オタク」の人にはきっぱりと、“「ぬるいオタク」はオタクじゃない”と主張してもらっていいと私は思っています。すなわち、<オタク・コミュニティ内における他称>という状態ですね、これは。


 しかし、こうした多様性に目を向けない<オタク・コミュニティ外からの他称>として、一律に「オタク」と括られるのは嫌。ただ、これはオタク云々というより、レッテルを貼られるのが嫌、というだけかも。


 残ったのは、オタクを自称するか否か、という問題。あるいは、自称できるか否か、という問題。本来、これは、自虐的な意味において自称するものでしかなかったはずだと私(のような旧世代)は思うのです。
 ところが。最近は自称ニーズがあるらしい(エリート化)。これは、奇妙な国策によるオタク・ムーブメントの作用、および「ぬるいオタク」の増加(大衆化)に対する反作用が相乗的に関係している。のかな。


 ので、オタクキモイ、と一律に思っているわけではありません。キモイ人も、でない人もいる、当然。自分はオタクじゃないだろうな、と思うのは<コミュニティ外>に気を使った結果ではなく(「嫌悪感の刃が己を突き刺す」からではなく)、<コミュニティ内>に気を使った結果なのです(気を使ってどうする?と言われてしまいそうですが、「真オタク」の知人も居るのですよ。それを知っていると、やはり私などは、まだまだ…)。


 精度の高い分析を行うエネルギーがないので、これぐらいで済ませます。特に「オタク」論を展開したいわけではなく、匿名Blogの限界の中で、発信者のポジショニングを知ってもらう意味でメモったしだいで。