“メタ・ソウルメイト・ミステリー”の超快作


◎『真夜中の弥次さん喜多さん』監督:宮藤官九郎(2005年・日本)


 (消滅に向かう)魂のバッド・トリップ、(摩滅に向かう)心のローリング・トラベル、(破滅に向かう)精神のイージーゴーイング。それが人の生。“ソウルメイト・ムービー”が観たいと思っていた矢先、私にはちょうど良い出逢いでした。
 <笑の宿>のパートの狂い方(ドラッグ酩酊感)には、正直、頭がくらくらに。『ラスベガスをやっつけろ』『レクイエム・フォー・ドリーム』などを観てないので、類例がないものなのかどうかは断言できないですが。終盤、まとめに入るところでやや失速を感じないでもなかったけれど、メタ志向と言い、生と死の無境界感覚(仕切ってるのが、あの人ですから)を味わえるところ言い、好みの世界でした。
 これはTBSがこだわり続けている“臨死・冥界系ラブストーリー”(直球では『秘密』『黄泉がえり』『世界の中心で、愛をさけぶ』『いま、会いにゆきます』、変化球では『ケイゾク』『ドラゴンヘッド』『木更津キャッツアイ日本シリーズ』、そしておそらく『あずみ』も)の系譜に入る映画だと私はとらえてます。     
 劇場パンフの中沢新一さんの評から。

 昔あったような確実なものだとか確実な世界だとかを求めようとする人たちは、すぐに政治や宗教やイデオロギーの仕掛ける罠にはまってしまう。政治家も宗教家もさまざまな論客たちも、ますます多元化し、錯綜の度合いを深めている世界を、ひとつの真実やひとつのリアルによって統一してしまいたい欲望に、突き動かされているからだ。
 二一世紀の「弥次さん喜多さん」は、それとは別の道を探り当てようとして、「お伊勢さん」への旅を続ける。「あるといやあある、ないといやあない」ような不確実な世界で、「あるはない、ないはある。きれいはきたない、きたないはきれい。現実は夢、夢もまた現実」という高次元思考をおこないながら、とりあえず前方に向かって足を踏み出してみるのだ。

 この評を読み、当Blogの名称を考えていた時に頭をよぎったことのいくつかに、輪郭が与えられたような気がしました。

(2005/04/05,池袋サンシャインシネマ)