ここにも「寓話シンドローム」が

 舞台の方は観てないので、そちらとの比較はできません。との前提で映画版なのですが、市川染五郎宮沢りえの魅力は、見事にフィルムに定着されてます(劇場パンフに樋口真嗣監督が寄稿してて、やはりそこを強調してます)。特に染五郎は絶品。文字通り“はまり役”。
 ただ、それでOKかというと、「劇団☆新感線」ブランドに期待して観に行った身としては、不満が残りました。


◎『阿修羅城の瞳』監督:滝田洋二郎(2005年・日本)


 まず気になったのは、染五郎の演技の質を、他の役者とバランスさせる意識がない(あるいは弱い)ことです。宮沢りえは意外にマッチしてて、それは演技力というよりも“柄”で勝負できてる人だからでしょう。しかし、芝居がかった台詞まわしと所作が魅力になってる染五郎に対し、ほかの役者(渡部篤郎内藤剛志小日向文世…)が映画・テレビ的な演技で取り囲んでしまってます。
 これ、『陰陽師』(野村萬斎)が抱えてたのと同じ問題のようにも思います。
 映画・テレビ的で一向に構わないんですけど、異質なものをぶつけることで化学反応を起こさせるような演出的な配慮がない(ように見える)ので、結果的に染五郎の存在が浮いてしまいかねないことになってます。舞台版からだいぶ省いてるらしい登場人物をゲスト的にでも残し、様々な演技の質の役者(時代劇系、演劇系…)を脇で出し入れするとかが必要だったんじゃないでしょうか。
 最近のものでそうした混沌パワーを持った映画がすぐには思いつかないんですけど、過去に遡れば『柳生一族の陰謀』(1978年かあ…)。大芝居の萬屋錦之介からまだ初々しい真田広之まで、配役のグラデーションが考慮されてました(しかも、上映時間は同じ130分に収めてるじゃないですか)。『柳生〜』はオールスターキャストだから出来たというものの、少人数なりに考えてれば…。


 映像(シークエンス)のエモーションが持続しないところもつらい。『壬生義士伝』を未見なので判定は保留しますが、滝田監督、娯楽アクションには適してない可能性が大です。それに、映像における美学やけれん(に対するこだわり)が、弱いように思えてなりません。染五郎のスケジュールが1カ月しか取れない条件だったらしいので、どうしても職人肌の人を監督に置きたい、とプロデュース側が考えたのは理解できますが…。
 終盤近くになって説明的な台詞が出てきます。それを役者が棒立ちで語ったり…。そんなところも流れを阻害してて、スピード感がどうにも足りません。いずれにしてもストーリー的に説得力があるような世界ではないので、整合性を気にするよりも、とにかく疾走力を優先させてほしかったですね(カットの組み立て方も含め、段取り的になるほど粗が見えてきちゃうんですよ)。


 映像や美術には見どころが多いと思いました(撮影:柳島克己、照明:長田達也、美術:林田裕至)。
 また、平成『ガメラ』三部作の特撮(視覚効果)の最大功労者の一人、松本肇(ビッグX)を中核に、エフェクト会社も『ガメラ』参画組がかなり動員されてて、視覚効果面(本作ではミニチュアワークも視覚効果の統括下に置く体制だったようです)のクオリティはかなり高いレベルに届いてます(もちろん『陰陽師』よりも、ずっと良い)。
 ただ、それは実写とのマッチング技術の点であって、映像表現的にはここにも美学やけれんが不足ぎみでした。この作品の世界観なら、やはり“かぶき”は必須でしょう(波紋状のワープをかけるエフェクト処理とか、うまく行ってる例ってあまり見たことないんですけど、本作ではかなり納得できるものを目にしたような気もしますが)。
 あー、でも、『グリーン・ディスティニー』を意識したらしいカメラワーク(イマジカのMILOか?)はあったにしても、CG忍者自体は、(アニメートの説得力の面で)『梟の城』からあまり進歩してないかも。


 最後に余談を。桜の花の下、そして戯作者の目が持ち込まれた世界であることの暗示。といったあたりは原作どおりらしい。これには『サトラレ』を連想しました。そう、脚本は同じ戸田山雅司。なのでした。
(2005/04/22,AMCイクスピアリ)