ジョン・ブアマン監督のBBC作品『目覚める夢を見た』が気になるな

 映画を、夢(あるいは白昼夢=妄想・空想…)や、記憶の編成(臨死体験・麻薬体験…)とのアナロジーで構想しようとしている作家が、少なからず存在すると思う。夢そのものを扱った映画もあるが、たとえそうではなくとも、だ。
 そうしたテーマに関連する文献をずっと探してたのですが、やっと現れました。「先行研究が極端に少ない」のだということも確認できました(希少な先例として筆者は、クリスチャン・メッツ著『映画と精神分析』を挙げてます。四方田犬彦著『映像の召喚』も入れていいはずなんですが、昔買ったものが見付からない…)。2940円。


◎『映画の論理―新しい映画史のために加藤幹郎(著),みすず書房ISBN:4622071290


 第5章「夢見る映画 映画における夢の表象史」がそれ。非常に興味深いです。これをまとめるきっかけとして睡眠文化研究所の依頼がなければ、きっと手を出さなかっただろうとまで言ってて、なぜ「夢と映画の関係」を考察することがそれほど厄介なことなのか、冒頭で陳述してます。

 夢と映画を論ずることが必然的に映画そのものを論ずるという、より困難な問題に逢着し、そのことがこの主題をはなはだ取りあつかい困難なものにしてきたからではあるまいか。夢と映画について論ずることは、映画とは何であるかという、より本質的な問題への厄介な遡行を意味することになるのだろう(夢を見ることが寝返りを打ちながらも相対的に静態的姿勢でおこなわれる視覚的体験であるとすれば、映画を見ることもまた同様の姿勢を強いられるシステムである)。映画を見るという文化的習慣と夢を見るという生理的な習慣とのあいだに、ある種の類縁性が認められるということは奇妙なことではなかろうか。(P.160)

 夢と現実の境界。それは映画の中で、どのような話法と技法によって描かれ始めたのか──。“映画初期”の作品を紐解くところから論考はスタートします。「そうした映画話法/技法上の約束は映画の初期(一八九五年頃から一九〇六年頃まで)から過渡期(一九〇七年頃から一九一七年頃まで)をへて古典期(一九二〇年代以降)にいたる四半世紀のあいだに、ひとつの明確な定式となり、くりかえし利用され、規範化されるにいたった」(P.163-164)。

  • 『もう一度を夢を見させてくれ』監督:ジェイムズ・ウィリアムスン(1900)
  • 『ある犯罪の物語』監督:フェルディナン・ゼッカ(1901)
  • フーリガンの夢』(1903)
  • 『レアビット狂いの夢』監督:エドウィン・S・ポーター(1906)

 といったあたりがまず紹介されるのですが、その後、映画の上映時間の世界標準が1時間半前後になってからのプロットとして登場した、教訓劇としての“夢落ち”などについて検証。近年の作品では『千と千尋の神隠し』などにも話題は及んでます。『映像の召喚』を見付けたら、またこの話題に触れようと思います。