“連句歌仙の三十六句はなんらそうした筋をもたないのである”(寺田寅彦)

 「映画と夢」に関する論考。「あらゆる芸術のうちでその動的な構成法において最も映画に接近するものは俳諧連句であろうと思われる」といった観点の論述に続き、映画と夢を比較したものです。初出は、1932年(昭和7年)の「日本文学」。全文を、青空文庫(図書カード:No.2469)からダウンロードできます。
 作品名:映画芸術
 作品集名:寺田寅彦随筆集第四巻「映画の楽しみ」
 著者名:寺田寅彦 

 夢の中に現われる雑多な心像は一見はなはだ突飛なものでなんの連絡もない断片の無機的系列に過ぎないようであるが、精神分析学者の説くところによると、それらの断片をそれの象徴する潜在的内容に翻訳すれば、そういう夢はちゃんとした有機的な文章になり、そうして恐るべきわが内部生活の秘密を赤裸々に暴露するものである。ただ夢の場合にはこれらの「夢内容」を表わす象徴としての顕在像が普遍的のものでなく人々の個人的な歴史によってのみ規定されたものであるから読み取ることが困難だというのである。
(中略)
 夢の心理と連句の心理の比較についてはかつて雑誌「渋柿(しぶがき)」誌上で詳論したからここでは略する。そうしてそこで論じたことはほとんどそのままにまた映画のモンタージュに適用してもさしつかえないと思うのである。それはとにかく自分がこの論を出した後に「クローズ・アップ」第七巻第二号を見ていたらヒューズ(C. J. Pennethorne Hughes)という人が映画と夢との比較を論じているのを見て興味を引かれた。夢に色彩のないこと、羊の群れが見る間に兵隊の群れに変わったりすることなどが述べてある。それから、夢が阻止された願望の実現となるように、映画の観客は映画を見ることにより、実際には到底なれない百万長者になり、できない恋をしたり、不可能事をしとげるというようなことも言っている。これもおもしろい見方である。映画の大衆的であるゆえんは最も密接にこの点につながっているという事は疑いもないことである。