“菩薩イントネーション”に萌える
こんな感情を呼び起こす(現在を舞台とした)映画を、この手なら(この原作だから)つくることが出来るのか。といった感慨はありました。ただ、泣けはしませんでした。やや感情移入をそがれたのは、よく分からなかった点(下記)があるからです。私、原作を読んでいません。だからかもしれませんが。
(ネタばれを含みます。鑑賞後にどうぞ)
- 作者: 中野独人
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/10/22
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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で、分からなかった点というのは──。
- クライマックスを含め、演劇的な見せ方をするのはよいとしても、あのどこまでも続く線路のようなトンネルのような道具立ては、何らかの表現意図があったのだろうか。線路(トンネル)を軸に、誰も居ないホームをシンメトリー構図で見せたショットがあるが、象徴性が強い割には物語展開(世界)とリンクしていないような…。
- その線路を挟んで「励まし」が飛ぶ場面。苦肉の策なのかもしれない。にしても、なぜ対岸(彼岸)に泣き別れているのか。しかも、そこに居る人たちの生気の無さはどうしたことか。リアリティーに着地していない2ちゃんねらーが、ネット空間からの電車君の出立を祝福しているのか。そんな単純なものじゃなさそうだし…。
- ラストの処理でさらに混乱する。一見よくあるオチ。けど、あの描き方だと、掲示板上の応酬すべてを仮構のものとして葬ったように見えてしまう。電車君を都市伝説的な存在として消失させるのなら、分からなくはない(上等ではないが)。しかし、それなら夢見る主体は、エルメス(似の乗客)か脇の少女にするのが筋合いじゃ…。
「掲示板とスプリットスクリーンを使ったオプティカル的(現実にはデジタル)な処理」(1)は、序盤は好調。さすがに少し単調かなと感じ始めた直後くらいから、その手法は撤回される。以降、テキストベースのネット空間をどう表現するのかなと思ったら、ホームでの「演劇的な処理」(2)が登場する。そしてクライマックスは、アキバでの「サイバーな3Dグラフィックスを使ったデジタル的な処理」(3)…*1。
うーん、映像はよく出来ているんだけど、どんどんネット空間に対する没入(耽溺)が深まってますよ。(3)(2)(1)と逆にたどるのが、むしろ正解なのでは。そこから、あのスプリットの中の個々人にディテールアップしていった方が、希薄な現実感と薄弱な人間関係からの回復、ネット・アディクショナルな生活からの退避、といったテーマを伝えやすかったのでは。…え? そんなテーマじゃないって?
確かに。応援に回っていた2ちゃんねらーたちが、最後に真実みの強いセカイに還ってくるような気配を見せるので、「それじゃ安易では…」と思った瞬間に、あのラストに移行する。ただ、それでいいんだけど、どうも描ききれていない、釈然としない感が残ってしまった(それが余韻になっているわけでもない)。
山田孝之と中谷美紀。当初のキャスティングイメージがそのまま実現したとのことだが、それでも制作サイドとしては、商業性の面で不安だったのではないか。いくらベストセラーといっても。ストーリーもシンプルだし。そこを心配した結果なのか、映画として「加工品」の味が強くなりすぎてしまっているように感じる。
主演の二人は、おたくキャラと菩薩キャラをとてもナイーブに演じていて素晴らしい。この二人の力と、安定した演出力、それに(1)のオプティカル的な処理(より洗練させる余地はある)をバランスよく配するぐらいに収め、もっとスマートに描いていれば、青春映画としてのマスターピースになりえたのではないかと思う*2。ちょっと余計な意匠を盛り込みすぎ。
言い換えれば、この原作がよく売れたという事実を正面から受け止めた上で、演技と演出(映像演出でなくてドラマ演出)に対する信頼を、制作サイドはもっと持つべき(あるいは監督は自信を持つべき)。だった。
(2005/06/17,ワーナー・マイカル・シネマズ市川妙典)
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