セカイと「つながる?」「つながらない?」


 SF史における“セカイ系”の位置付け──。笠井潔さんと山田正紀さんの対談から、そこにかかわる個所だけメモっときましょう。全体では、この半世紀あまりの日本のSF史を、自分たちの世代の視点から俯瞰するという内容です。キャッチは“戦後文学からオタク文学へ〜団塊世代の日本SF史”。『SFマガジン』2005年7月号・特集<ぼくたちのリアル・フィクション2>からです。


 まず、“セカイ系”の簡潔な説明──。

笠井 (前略)セカイ系の物語的な形式は、少年は終わらない日常を無力に生きていて、少女が世界の彼方で巨大な敵と戦う、というものですね。少女を媒介として、大きな物語=意味を獲得するという構造はあるにしても、筆者はむしろ、少女が戦いで傷ついているのに自分は何もできない、という無力感に耽溺し、それを楽しんで消費している。美少女ゲームにも同じような傾向が認められます。(P.59)


 ここで引き合いに出されているのが論者としての宮台真司さん。「より悪くない大きな物語」(笠井)の提供に姿勢を転換した後もなお、宮台さんの二項対立(無意味な日常と意味のある非日常、大きな物語と小さな物語)の維持は解けていない。と、その限界を指摘した上で、さらに“セカイ系”の特質を説明しています。

笠井 (前略)セカイ系の構図では、少年が暮らしている学園の平凡な日常空間に、宇宙の彼方で戦う戦闘美少女が下降してくる。そこに出現するのは、日常がハルマゲドンであり、ハルマゲドンが日常であるような、これまでの二項対立では捉えられないような世界ではないでしょうか。カタカナでセカイと書くのはつまりこういう意味なんだ、と僕は理解しています。(P.59)


 次に、典型的なセカイ系作品として秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏』、新海誠『ほしの声』を挙げた上で、それらとは異なる冲方丁マルドゥック・スクランブル』の“新しさ”とは何かを明らかにしていきます。

山田 (前略)少年がいないのが特異なところです。そのかわりに特異なネズミがいるわけですが、彼にはある種の喪失感はあっても、セカイ系の少年たちとは明らかにちがう。少女には、世界と自分を媒介するネズミがいて、克服すべきものとして、世界とコンタクトできなかった過去の自分がある。そのずらし方がものすごく上手い。過去の自分をどう克服するか、という普通小説の普遍的なテーマを、SFの文脈でセカイ系と結びつけて、さらにそれをずらし、非常に映像的な小説に仕立て上げた。(P.59)


 そして、先行する作家群からの影響にも言及。神林長平野阿梓大原まり子などの世代が、「SF有力新人のオタク的、セカイ的な発想を準備した」(笠井)と位置付け、「オタク第三世代の若い読者は、二十年も前に書かれた『戦闘妖精・雪風』を再発見した」(笠井)としている。
 最後に特記したいのは、この対談の枕にもなっている押井守イノセンス』です。

山田 (前略)世界といかに繋がるか、というのは『マルドゥック』に限らず最近の日本SFのメインテーマだと思います。(中略)
 ところが、『イノセンス』の特筆すべきは、それに対して世界とコミュニケートする必要はない、人間も世界も大したものじゃない、孤立を恐れるな、というスタンスを明確にうちだしたことです。(後略)
笠井 ある意味、押井氏の影響下に生じたともいえるのに、彼はセカイ系や戦闘美少女のキャラに否定的ですね。この辺のねじれに関しても、きちんとした論議がなされる必要があるでしょう。(P.59)


 ふー、長くなりました。小松左京に遡って語られる戦後史などについては、原典の方でどうぞ。


 巻末には、「2005 リアル・フィクション・ガイド44」も。前回特集「メディア別:次世代型フィクション・ガイド70」(2003年7月号)以降に発表された作品からのセレクションだそうです。気にとまったものを忘れないうちにメモっときましょう。


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