“ありえないのがオチだ”


タイガー&ドラゴン』の展開に対し、私が関心を持っていたのは以下の3点──。

  1. 虎児は本当に一家心中の「生き残り」か、といった存在の不確かさが暗示されるか。
  2. おそらくは終盤となる回(きっと最終回ではない)で、「品川心中」がどう使われるか。
  3. 再現ドラマ的な仮構の過去(落語世界)が逆に現実側に影響を与えることがあるか。

 1については、第9話「粗忽長屋」で確認できた。最終的に虎児が、そうしたイリュージョンとして表現されることになるかどうかは分からないが、死びとが物語の中心に居るような発想を“ありえない”と一蹴するもんじゃないということを、まさに劇中で説いてしまっていた。このドラマの落語教養バラエティー的な趣向を推し進めれば、受け手の側の物語の見方を成熟させることにつながるのかもしれない。などと思ったりも。
 2ついては、次回・第10話(6月17日)がいよいよ「品川心中」だ。
 そして、3について──。


 実は新宿流星会の事務所の光景(窓外を電車が通過する)を見るたびに連想するのが、大林宣彦監督の傑作『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』*1。1988年の作品だ。この映画のファンからすれば、室田(三浦友和)、成田(永島敏行)、夕子(南果歩)の後日談が、第4話「権助提灯」になっているように見えなくもない。
 やくざの末路を描いた『おかしなふたり』の終幕には、とても忘れがたいショットがあって、いかにも大林監督らしい“もう過ぎ去った取り返しのつかない時空間”に対する思いが、見事に表現されていた。そうした時空間の超越が、この『タイガー&ドラゴン』にも顔を出すのか(『真夜中の弥次さん喜多さん』では全開だったわけですから)。
 『タイガー&ドラゴン』では特に前半で、過去(落語世界)と現在との切り返しが不思議な時空間を生み出している個所があって、“これは使える”と思ったりもしたのだが。TVドラマでそうしたトリッキーな趣向に走り過ぎるのは、やはりリスキーなのか。

*1:最も尾美としのり度の低い尾道映画。尾美的ポジションは竹内力が担当。