“ああいった黄泉にいるのがいまの人間なんだ”(押井守)


 冥府めぐり系のファンタジー(現実として擬装された冥府を主人公らが彷徨するファンタジー)の浸透(と流行)に大きな影響を与えた一つに、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の存在があるのではないかと思う。監督自身による『イノセンス』の解題の中に、まさに「冥府(黄泉)」に触れた下りがあったのでメモっておく。


 まず、演出の狙い。

押井 僕のたくらみとしては、生身、サイボーグ、人間みんな同じに見えるんだから、むしろ人間が人形に見えてくればいいと思っていたんです。(中略)バトーとかトグサ、荒巻といった登場人物の魂がとんでいるようにどうやって描くかということですね。動かさないとかまばたきさせないとか、いかに死体や幽霊のように見せるかということをやった。(中略)とにかく生命感のない世界を目指したんですよ。真ん中の択捉の祭りもそういう意図でしたよね。みんなお面をつけて走り回って、あそこで犬だけが身体を持っているというので、あちこちに犬を徘徊させた。(P.109)

 とした上で語っている“いまの人間”観が興味深い。

押井 スタッフはみんな僕の個人的な趣味だと思いこんでいるけれども、ちゃんと演出的な理由があるんです(笑)。(中略)択捉は人形の街であって、犬だけがいなくなった人間やご主人様を捜して悲しげにうろついているわけです。だから、あのダレ場にこそ映画のエッセンスがすべて入っている。あれは冥府だと言い続けていたんですけど、現実でもなく彼岸でもないあいまいな領域、ああいった黄泉にいるのがいまの人間なんだということなんですね。(P.109)

 以上、『ユリイカ』2005年5月号「景色としての日本・人形・アニメ」からでした。